世界哲学シンポに参加

 世界哲学シンポ(R1-11-30)に参加した。

 このシンポは文系のシンポである。
 なぜこんなシンポに参加したか。
 高校時代に友人の家で「哲学入門」の本を読んで、面白いと思った。
 大学でも社会思想史でギリシャ哲学のことを習ったように記憶している。
 習った内容は忘れているのだが、ある単語を覚えている。
 「ヒュポケイメノン」というギリシャ語で、主体と客体、主観と客観の主体(英語のsubject)の意味のようである。
 「ヒュポ」(下に)+「ケイメノン」(置く)という合成語で、アリストテレスが使っていたようである。
 なぜこのような単語を今まで覚えていたかよくわからないが、音読するとリズム感があって、いかにもギリシャ哲学っぽいなあ、と思ったのかもしれない。

 一方、仏教では空海のことに興味があって、この仏教と哲学を一緒にして考えるなんて、どんな内容になるのか、また全然知らないイスラム教、シンポの1か月前にEテレの「100分de名著」という番組で、京大の西田幾多郎の「善の研究」のことをやっていた。
 西田幾多郎は日本哲学の祖と言われているようだが、この本は難しすぎて挫折したようなおぼろげな記憶があった。

 こういう過去の思いと世界哲学という統一的な試みをしようというので、野次馬的な興味で参加した。
 この時は、家でティバッグのお茶をマイボトルに入れて参加したので、途中でペットボトルは買っていない。

 会場では名刺を渡すと、アンケート、質問票と講演資料をくれた。
 講演前には必ずトイレにも行っている。

 開会挨拶は名古屋大学の戸田山氏が行った。
 大風呂敷を広げてしまったな、と言った。
 学術会議に加わって、よかったと思えることは少ない。
 でもこの会議が開けたことはよかったと思う。
 学生の時に哲学と出会った。
 というより、他の勉強をしなかった。
 こういう考え方があるのか。
 西洋哲学しか勉強していない。
 それが当たり前だと思っていた。
 学生の頃に、西洋哲学の問題の立て方が変だと言って、先生に変な質問をする名人だった。
 このシンポジウムは当時を思い起こさせる。
 世界哲学って何?
 いろいろなものを哲学はカバーしている。
 主に西洋哲学を仮定している。
 4文字学部と言われた。
 文学部は高尚、情報文化学部は一段低い?
 世界哲学は4文字である。

 趣旨説明を司会の東大の納富氏が行った。
 今日のシンポは録音する。
 質問票を書いて欲しい。
 このシンポジウムを開催するために、昨年春から分科会を作った。
 どうして始めたのか。
 昨年世界哲学学会が開催された。
 1900年から続いている。
 でも日本で開催したことがない。
 日本開催の準備をしている。
 その中から世界哲学という考え方が生まれた。
 国内で哲学系の6学会がある。
 これらの学会の連携を図りたい。
 今はキャッチフレーズの段階である。
 考えとして固まっていない。
 今はプラットフォームがある段階である。
 世界哲学という言葉がある。
 グローバルという言葉は使わない。
 哲学と言えば、ギリシャ哲学が思い浮かぶ。
 でもインドにも中国にも哲学はあった。
 最大公約数をまとめる。
 世界史は高校で習う。
 科学は西洋科学とは言わない。
 世界中で同じ標準が使われている。
 あるべき哲学の姿を構築する。
 一つの哲学に収れんすると、細かいことが抜け落ちる。
 独自の在り方があるべきである。
 アフリカ、中南米、東南アジアでも独自の価値観がある。
 我々の哲学を変えていく。
 世界哲学の一つとして、日本哲学を活かしていく。
 日本の過去を振り返る。
 今生きている姿もみる。
 日本で行われている哲学か?
 日本人で行われている哲学か?
 21世紀の様々な問題と向き合う。
 その時に哲学の翻訳もまた問題となる。

 報告1では、日本哲学・宗教学の立場から、「日本の思想伝統のもとで哲学するということ」というタイトルで、京都大学の氣多(けた)女史が講演した。
 この女史は京大ということで、西田幾多郎の「善の研究」等に詳しいようである。
 日本の思想の伝統ということでは、宗教からまず始まった。
 15、16世紀の大航海時代には世界中に宗教があった。
 これらは比較、分類、整理されて、初めて学となる。
 キリスト教と他の宗教は区別されていた。
 これを取り除くのが宗教哲学である。
 続いて科学宗教が出てくる。
 宗教の定義は何か。
 これらは錯綜していた。
 キリスト教プロテスタントの概念等もあった。
 宗教学や宗教哲学も生まれた。
 哲学と人生の問題は同じようである。
 哲学は宗教と同じ目的を持つ。
 世界哲学へは西田哲学がヒントになる。
 ヘーゲル研究者の紀平正義は西田幾多郎の「善の研究」の出版に関わった人である。
 彼は、学問とは人間形成のために行われるものだと言った。
 西田の哲学は心理主義との批判があった。
 反対は論理主義である。
 西田が世界の哲学と向き合った。
 哲学は科学のように高度なものとなり得るのか。
 外来の知をどう受け入れるのか。
 西田における人生の問題である。
 西田は自己分裂の危機にあった。
 その中から、東洋と西洋という対立にこだわることはない。
 科学とテクノロジーと資本主義のセットで考えればよい、と考えた。
 論理主義ではフッサールの厳密な学としての哲学がある。
 世界哲学は自分が根源的と考えているものを他に説明できるか、が問われる、と説明した。
 (私はこの氣多女史の主張はほとんど理解できなかった。西田幾多郎の「善の研究」もしかりである。ただ、西田が当時の西洋から入ってくる学問体系の中で、自分を見失わないように、そのための思想の軸を何とか見つけようと努力していたのは、その後にEテレの100分de名著の「善の研究」の解説をビデオで再度見直して、少しわかったような気がした。)

 報告2として、 仏教学の立場から「仏教から哲学を再構築する」というタイトルで、国際日本文化研究センターの末木氏が講演した。
 非西洋圏の哲学の可能性として、インド哲学(Radhakrishnan,1923)、中国哲学(胡適,1919)等がある。
 日本の場合は東大の印度哲学・支那哲学(1881)があった。
 日本哲学はどうか。
 東洋哲学担当の井上哲次郎が1882年に東大に在籍していたが、欧州留学し、大学の哲学講義としてカントとショーペンハウエルを教えた。
 でも東洋哲学として印度哲学も教えた。
 日本の哲学史も重要と考えており、神道、仏教史、儒教も講義した。
 仏教から哲学を考える。
 世界哲学は可能か。

 「冥顕の哲学」という構想がある。
 「世界」という言葉には、今生きている世界、自然としての世界と超越的な世界がある。
 普遍性(哲学)の二重性である。
 あらゆる人に妥当、あらゆる領域に妥当するものがある。
 中世の哲学は哲学+神学で普遍性を追求した。
 神を前提としない普遍性を近代の哲学者、デカルト、カント、ヘーゲル、スペンサーコント、マルクス等が考察した。

 普遍性の崩壊があり、非西欧圏の哲学として、印度哲学や中国哲学が出てきた。
 井上円了は哲学会の創設を行い、宗教学から東洋哲学が始まったが、宗教学関係の人が半分くらいいた。
 西洋哲学の方ではカスリスが出て、Integrity(自己統合型、西洋)とIntimacy(他者親密性、非西洋)を唱えた。
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         図1 カスリスの著の表紙

 哲学か、思想か。
 日本哲学、という言い方か、日本思想という言い方か。
 哲学は普遍性を要求できるか。
 一義的に説明できない曖昧さがある。
 天地創造は今でも有効か。
 玉虫色でいい。
 クリプスの「クワス」という考え方がある。
 57より小さいか大きいか、で判断する。
 世界哲学から<世界>哲学ではどうか。
 独我論にならないか。
 冥顕の哲学がある。
 (筆者注:冥土とこの世の意味らしい。仏教と神道を融合した哲学で、末木氏が構築したものらしい。)
 公共性もある。
 公共の言語と他者の言語がある。
 他者との同化と異化がある。
 十界互具(じっかいごぐ)という天台宗の教えがある。
 (筆者注:調べてみると、十界の一つ一つが、互いに他の九界を備えているということ。地獄の衆生(しゅじょう)も仏となりうるし、仏も迷界の衆生となりうるということらしい) 
 私とあなたの間のコミュニケーションとしての言語がある。
 聖書、コーラン、法華経等がある、との説明があった。

 何が何だかよくわからないところが多かったが、仏教の考え方を取り入れて、世界哲学の構築をしようという意図らしかった。
 そう言われてみれば、仏教はキリスト教やイスラム教のように神という第三者に依存せず、自らが神や仏になる、または自らの中に神や仏を住まわせているのであるから、神も仏も統合して世界哲学となる資格があるのかもしれない。

 報告3として、現代哲学・芸術論の立場から「世界哲学と芸術の未来」というタイトルで、北陸先端科学技術大学院大学の永井女史が講演した。
 永井女史は芸術に興味があった。
 米での鉄板芸術の裁判があった。
 日本の中の迷惑なものがある。
 あいちトリエンナーレが開催された。
 (平和の少女像展示ということが慰安婦問題を象徴するイメージがあり、後に文化庁がこのイベントの後援費用を停止した事件があった。) 

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        図2 あいちトリエンナーレのポスターデザイン

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        図3 あいちトリエンナーレのHPでの一風景

 水に浸かった新幹線の映像のインパクトが大きい。
 あいちトリエンナーレは3年に1度開催され、3度目である。
 「自由」がキーワードである。
 表現の自由、表現の不自由がある。
 タブーとされがちなテーマを選んでいる。
 1回目はよかった。
 2回目はSNSで拡散した。
 3回目は中止になった。
 今も議論が続いている。
 創造性というものがある。
 0から1へ、1から2へ、1から10へとも変わる。
 おそらく現実は1から2へ、である。
 コンピュータは芸術ができるか。
 言葉の遊びがある。
 自分で作ったシステムに身をゆだねられるか。
 レオナルド・ダ・ヴィンチがいた。
 世界の美術品の市場は7兆5千億円規模である。
 カオフェと村上タカシがいる。
 西洋美術の中のアジアがある。
 草間彌生が出る。
 人間内部の問題より人間と人工物が今の問題である。
 人間が生命を作る。生命の創造、生命工学がある。
 科学技術と芸術のせめぎあいはない。
 IBMのワトソンがいる。
 人工知能は芸術ができるか。
 なお国連の持続的な開発目標SDGsに関連して賞をいただいた、との説明があった。

 15分の休憩の後にコメント1として、西洋哲学の立場から立教大学の河野氏がコメントした。
 ベルギーに留学した。
 アフリカと南米の学生が多かった。
 ベルギーはかつて植民地主義が酷かった。
 デカルトは悪である。
 アリストテレスも南米で評判が悪い。
 西欧から逃げてきたとして共産主義は悪い。
 どこを出発点にするか。
 公平性は何か。
 ヒトラーを研究するというのは許されない。
 どういう動機で研究するのか。
 レーヴィッドは「日本はまるで二階建ての家に住んでいるみたいだ。」という。
 問題を立てる。
 それをあらゆる方法で解決する。
 現代哲学において、現象学と分析哲学が行き詰まりを示している。
 現象学の中心地が移動している。
 分析哲学が偏向している。
 なぜ普遍性を求めるか。
 共有性を提案したい、とコメントした。

 コメント2として、中国哲学の立場から、東大の中島氏がコメントした。
 中国哲学を研究している。
 老子というテキストがある。
 「道」という言葉がうまく翻訳できない。
 ロゴスか。
 (筆者注:「道」と書いて、タオと読むらしい。「道の道とすべきは常道にあらず、名の名とすべきは常名にあらず。」という最初の一節が有名である。真理、道理は一定不変のものではなく、不定形であると説く。水はあらゆる形の容器に納まり、自らの形を決めていない。どうも万物は流転する、というヘラクレイトスに近い考え方のようである。) 

 普遍という概念の使い直しがある。
 普遍性を欠くと危険である。
 永井女史のクリエイティビティが気になった。
 世界の中の日本の哲学ということで、ハーバード大学の学生の人生が変わった。
 東洋哲学は礼という中国的な概念がある。
 古代中国をフィールドにしてみる。
 空海がいた。
 ムハンマドは天使ガブリエルに読めと言われる。
 空海はすべてを知りたかった。
 他者と何かを分かち合うのか。

 コメント3として、イスラーム哲学の立場から、東京学芸大学の小林氏がコメントした。
 哲学の音写がある。
 ヒクマ(叡智)という言葉がある。
 クルアーン(聖典)由来である。
 聖典とヒクマが並列にある。
 9-10世紀にギリシャ哲学の翻訳があった。
 アリストテレスの哲学がイスラム哲学に導入された。
 哲学は外来の学問である。
 思弁神学と渾然一体である。
 イスラム哲学はアラビア哲学ともいわれる。
 言語はギリシャ語からアラビア語に移る。
 イブン・ハルドゥーンが13-14世紀に活躍した。
 理性的な学問と伝統的な学問があった。(クルアーンとスンナ)
 イスラム以外を捨象するものではない。
 イブン・シーナという哲学者も活躍した、と説明した。

 この後にディスカッションとなった。
 日本哲学という言葉に抵抗があった。
 でもドイツ哲学、フランス哲学という言葉はあった。
 普遍性は成り立たなくていいのか。
 朝鮮通信使が日本に来た時に、翻訳を自国の都合のいいように書き換えることが行われていた。
 お互い玉虫色でいい。
 アメリカファーストとどう対応するか。
 囲碁でAIが名人に勝つ。
 世界哲学は未来に対する学問か。
 諸哲学と世界哲学の関係はどうなのか。
 知識の体系を求めても仕方ない。
 神道哲学の中にキリスト教を取り込む。
 いかに生きるか、いかに死ぬかということは玉虫色がいい。
 解決できない問題である。
 これまでの哲学の歴史とこれからの哲学で考える。
 哲学の運動性である。
 ゼロから考えるのではない。

 最後に会場からの質問票に答えた。
 私は神と仏の違い、ゲノム編集、世界哲学とSDGsについて、質問票に書いた。
 そのうち、神と仏とゲノム編集について取り上げられたように記憶しているのだが、回答ははっきりと覚えていない。
 おそらく、壇上のゲストは答えられなかったのかもしれない。

 以上で今回のシンポは終了した。

 あまり期待していたわけではなく、興味本位というのが正直なところであった。
 世界哲学なんて大風呂敷な、と思っていたら、最初の戸田山氏がまさに同じことを言っていて、思わず笑ってしまった。
 これまで、世界中で数多くの哲学者が出てきて、多くの哲学的な思索をしてきたことをそんなに簡単に統合できるわけがないのである。
 ただ壮大な目標として、考えていく姿勢はよいと思う。

 国連の持続的な開発目標SDGsも、世界中で今現在起きている大きな問題を190か国あまりの代表が議論を重ねて、その解決に向けた目標を作り上げた理想論である。
 同じように、世界哲学という名で、哲学の統合という理想論を振りかざし、その中から新しい哲学体系ができれば、それが一番理想的である。

 今はIT革命、AI革命、iPS細胞、ゲノム編集等、人間世界の科学的革命がどんどん進んでいる。
 その中で人間はどのように生きていけばいいかを考える時のヒントでも提供してもらえればいいかなと思う。

 ただ今後こういうシンポジウムがあるとした時に参加するかどうかはまだはっきりわからない。

<2019年公開シンポジウム>
「世界哲学の可能性」
 1.日時:2019年(令和元年)11月30日(土)13:30~17:00
 2.会場:日本学術会議講堂
 3.主催:日本学術会議 哲学委員会
 4.共催:日本哲学系諸学会連合、日本宗教研究諸学会連合
 5.開催趣旨:
 「哲学」の営みはこれまで、古代ギリシアに始まる「西洋哲学・倫理学」を中心に理解され、それとは別に「中国哲学」「インド哲学・仏教学」「日本哲学・思想史」「宗教学・比較思想」などが研究されてきました。
 近年そういった分断された枠組みを超えた「世界哲学」の構築が話題となっており、異なる文化伝統が並存する日本ならではの役割が期待されています。
 果たして人間に普遍的な哲学は存在するのか。
 世界という視点から実践する哲学が、独自の諸伝統を排除することはないのか。
 こういった基本問題を、各分野の代表的論者が集って話し合う、学術会議ならではのシンポジウムを意図しています。

 6.プログラム:
  司会:納富信留(東京大学)
     上原麻有子(京都大学)
 13:30-13:40 開会挨拶:戸田山和久(名古屋大学)
 13:40-13:50 趣旨説明(司会:納富信留)
 13:50-14:10 報告1 日本哲学・宗教学「日本の思想伝統のもとで哲学するということ
        氣多雅子(京都大学)
 14:10-14:30 報告2 仏教学「仏教から哲学を再構築する」
        末木文美士(国際日本文化研究センター)
 14:30-14:50 報告3 現代哲学・芸術論「世界哲学と芸術の未来」
        永井由佳里(北陸先端科学技術大学院大学)
 14:50-15:05 休憩
 15:05-15:20 コメント1  西洋哲学 河野哲也(立教大学)
 15:20-15:35 コメント2  中国哲学 中島隆博(東京大学)
 15:35-15:50 コメント3 イスラーム哲学 小林春夫(東京学芸大学)
 15:50-16:40 ディスカッション
 16:40-17:50 議論のまとめ(司会:上原麻有子)
 16:50-17:00 閉会挨拶:藤原 聖子(東京大学)
  -以上-

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