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zoom RSS ベクレルって何者?

<<   作成日時 : 2017/04/23 08:42   >>

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 ベクレルって何者なのか?

 食品の放射能の安全基準で100ベクレル/kgなどと表記されていたりする。
 素朴な疑問が出てくる。
 ベクレルという言葉はよく聞くけど、私はこれが人名と知っているが、一般の人は人名と知っている人は多くないだろう。
 ネットで調べてみると、官庁のHPにベクレル伝らしいことが載っていた。
 下記にそのURLは載せておくが、ここの説明はどうも専門家らしい説明で気に入らないので、この資料を参考に自分で書き直してみた。
 以下はその書き直した文章である。
 これが逆に気に入らない方は、下記のURLをみれば原文があるので、そちらを参照してください。

 ベクレル伝(1852-1908)

 アンリ・ベクレルはフランスの物理学者・化学者である。
 この両方ともに成立していた時期の研究者である。
 彼は放射線の研究でノーベル賞をもらっている。
 その研究とは、簡単に言えば、ウラン塩の蛍光の研究中に、ウラン塩から未知の放射線(今で言うアルファ線)が飛び出すことを偶然に発見した、というものである。

 この発見の背景は以下の通りである。

 1895年にレントゲンがX線を発見した。その翌年に、ベクレルはこのX線の論文を友人の数学者ポアンカレから受け取った。
 ポアンカレは「X線が蛍光を発するなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかもしれない。」と言った。

 ここでは数学における論理展開が見られる。「逆もまた真か否か」ということである。
 飛躍するが、別の例えを考えてみる。
 「万能細胞の受精卵は成長すると、分化して1つの機能を持った器官になる」という命題があるとする。
 この逆の命題は「分化して一つの機能を持った器官は万能細胞に戻れるか」ということである。
 これは、昔であればきっと、お前はアホか、と言われたであろう。
 でも今では京大の山中教授のiPS細胞は、皮膚や血液という一つの機能の器官に山中ファクターと呼ばれる因子を導入して万能細胞を作れることを示した。これでノーベル賞を受賞した。

 このように、一つの命題の逆の命題は多くの新しい科学の発見の可能性を秘めている。

 元に戻って、ベクレルの研究の話をする。
 ここでポアンカレが持ってきたのはX線の発見の論文で、レントゲンがクルックス管という蛍光灯のランプのような装置を使って電子線の実験をしていた時に、傍にあった蛍光紙が発光していることから、X線を発見したのである。
 この逆の命題が、蛍光紙から何かの放射線が出るかもしれない、というものである。

 ウラン酸化物(塩)は当時からウランガラスとして緑色の蛍光を出すこと等の蛍光を発することが知られていた。
 この蛍光にもX線を出す性質があるかもしれないとポアンカレは思い、ベクレルに実験を頼んだようである。
 ここで、放射線の検出道具として、写真乾板(ちょっと前での写真のフィルムのようなもの)が出てくる。
 また、写真乾板を覆う黒い厚紙(遮光紙)が出てくる。今でいう光の遮へい材である。
 この写真乾板を黒い遮光紙で覆い、その側でウラン塩に太陽光を当てる実験をした。
 太陽光をウラン塩に当てたものから何らかの放射線らしいものが出て、写真乾板を感光させた。
 光が当たると、光が当たった面が真っ黒になり、光が当たらない面は白いままである。
 この実験では写真乾板が黒くなったことから、ウラン塩から何か放射線が出ていると思った。おそらくX線と思っていたのではないか。
 でもそのうち、天気が悪い日が続き、実験はやめて、机の中にウラン塩と写真乾板をしまっておいた。

 実験再開の時に既に写真乾板が感光していることに気がつき、それを見逃さなかった。
 太陽光がなくても、ウラン塩から何らかの放射線が出ていることに気がついたのである。
 これが後にアルファ線であることがわかった。

 図解で示すと図1のようになる。

画像

                図1 ウラン塩の蛍光実験(下記の首相官邸HPより抜粋)

 この後、キュリー夫妻がこのウラン塩の基となる鉱石から、ベクレルの実験を上回る形で、ラジウム、ポロニウム等を発見した。
 これらの功績で、1903年に共にノーベル物理学賞を受賞している。
 ただ、ベクレルが56歳という若さで亡くなっているのはキュリー夫妻と同じく、放射線障害による病気ではないかと言われている。

 その後、1975年にSI単位系として、ベクレルの単位が放射線の崩壊する個数を表す単位として、国際度量衡学会で採用された。
 毎秒あたり壊れる個数のことをベクレル(Bq)と表現することにしたのである。

(1)参考資料 首相官邸 災害対策ページ(wikipediaで補足)
 http://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka_g41.html


 ノーベル財団に載っているベクレル伝は以下の通りである。
  http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1903/becquerel-bio.html


 下記に、英語と同時に私の日本語訳も載せておく。

Henri Becquerel - Biographical

 Antoine Henri Becquerel was born in Paris on December 15, 1852, a member of a distinguished family of scholars and scientists.

 アントワーヌ・アンリ・ベックレルは、1852年12月15日パリで、学者と科学者として名高い家族の一員として誕生した。
 
画像

                            図2 ベクレルの肖像

 His father, Alexander Edmond Becquerel, was a Professor of Applied Physics and had done research on solar radiation and on phosphorescence, while his grandfather, Antoine César, had been a Fellow of the Royal Society and the inventor of an electrolytic method for extracting metals from their ores.

 彼の父〈アレキサンダー・エドモンド・ベクレル〉は応用物理学の教授であり、リン光に関する太陽放射についての研究をした。
 また、彼の祖父、アントワーヌ・セザール・ベクレルは王立学会特別研究員であり、金属をそれらの鉱石から取り出す電解の方法の発明者でもあった 。

 He entered the Polytechnic in 1872, then the government department of Ponts-et-Chaussées in 1874, becoming ingénieur in 1877 and being promoted to ingénieur-en-chef in 1894.

 彼は、1872年にエコール・ポリテクニークに入学し、1874年に国立土木学校の政府部門に入学した。
 そして1877年にエンジニアとなり、1894年にチーフエンジニアとなった。

 In 1888 he acquired the degree of docteur-ès-sciences. From 1878 he had held an appointment as an Assistant at the Museum of Natural History, taking over from his father in the Chair of Applied Physics at the Conservatoire des Arts et Metiers. In 1892 he was appointed Professor of Applied Physics in the Department of Natural History at the Paris Museum. He became a Professor at the Polytechnic in 1895.

 1888年に彼は科学の医者の単位を取得した。
 1878年から、彼は国立歴史美術館の助手として働き、音楽院のコンセルバトワールとして、応用物理学の責任者として彼の父から引き継いだ。
 1892年に彼は国立歴史博物館の応用物理学の教授に任命された。
 1895年にはポリテクニークの教授になった。

 Becquerel's earliest work was concerned with the plane polarization of light, with the phenomenon of phosphorescence and with the absorption of light by crystals (his doctorate thesis). He also worked on the subject of terrestrial magnetism. In 1896, his previous work was overshadowed by his discovery of the phenomenon of natural radioactivity.

 ベクレルの最も早い仕事は、光の平面偏光、リン光現象、および結晶による光の吸収(彼の博士号のテーマであった)に関係したものであった。
 彼はまた、地球上の磁力の課題に取り組んだ。
 1896年に、彼のそれ以前の仕事は自然放射能の現象の発見により、陰に隠れてしまった。

 Following a discussion with Henri Poincaré on the radiation which had recently been discovered by Röntgen (X-rays) and which was accompanied by a type of phosphorescence in the vacuum tube, Becquerel decided to investigate whether there was any connection between X-rays and naturally occurring phosphorescence.

 その頃レントゲンにより発見されていた放射線(エックス線)に関するアンリ・ポアンカレとの議論で、真空管の中のリン光のあるタイプが放射線に付随して出てくるかどうかという問題から、ベクレルは、エックス線と自然に発生するリン光の間に何らかの関係があるかどうかにかかわらず、調査することを決めた。

 He had inherited from his father a supply of uranium salts, which phosphoresce on exposure to light. When the salts were placed near to a photographic plate covered with opaque paper, the plate was discovered to be fogged.

 彼は彼の父からウラニウム塩の供給品を引き継いだ。それは光に当てると、燐光を発するものである。
 その塩が、不透明な紙により覆われた写真乾板近くに置かれた時には、プレートは暗くされることがわかった。

 The phenomenon was found to be common to all the uranium salts studied and was concluded to be a property of the uranium atom.

 その現象は、調べられたすべてのウラニウム塩に共通であることがわかり、ウラニウム原子の特性であると結論付けられた。

 Later, Becquerel showed that the rays emitted by uranium, which for a long time were named after their discoverer, caused gases to ionize and that they differed from X-rays in that they could be deflected by electric or magnetic fields.

 後にベクレルは、それらの現象の発見者の後で長い間名付けられていたことであるが、ウラニウムにより放出された放射線がガスをイオン化させ、電場または磁場により曲げられたという点で、それらがエックス線と異なることを示した。

 For his discovery of spontaneous radioactivity Becquerel was awarded half of the Nobel Prize for Physics in 1903, the other half being given to Pierre and Marie Curie for their study of the Becquerel radiation.

 1903年に、自発的な放射能の発見に対して、ベクレルはノーベル物理学賞を授与され、もう半分はベクレルの放射線の研究を行ったピエールとマリー・キュリーに与えられた。

 Becquerel published his findings in many papers, principally in the Annales de Physique et de Chimie and the Comptes Rendus de l'Academie des Sciences.

 ベクレルは、主として「物理学と化学の年報」および「科学アカデミーの報告」誌に彼の発見を記した多くの図書を出版した。

 He was elected a member of the Academie des Sciences de France in 1889 and succeeded Berthelot as Life Secretary of that body. He was a member also of the Accademia dei Lincei and of the Royal Academy of Berlin, amongst others. He was made an Officer of the Legion of Honour in 1900.

 彼は1889年にフランス科学アカデミーのメンバーとして選ばれ、その機関の生命担当秘書としてベルトローを引き継いだ。
 彼はローマの科学アカデミーやドイツの王立アカデミーのメンバーでもあった。
 彼は1900年に名誉軍隊役員にもなった。

 He was married to Mlle. Janin, the daughter of a civil engineer. They had a son Jean, b. 1878, who was also a physicist: the fourth generation of scientists in the Becquerel family.
Antoine Henri Becquerel died at Le Croisic on August 25, 1908.

 彼はジャニン嬢という土木工学者の娘と結婚した。
 彼らの息子ジーン、b.は1878年生まれで、彼もまた物理学者でもあった。
 ベクレル家は科学者が四世代続いた。
 アントワーヌ・アンリ・ベックレルは1908年8月25日にブルターニュ地方のル・クロアジックで死んだ。
      −以上−

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